密雲悟和尚はまだ元気盛んな壮年時代に幻有老人(密雲和尚の嗣法の師幻有伝禅師)を師匠として髪を剃って出家され、その後いろいろと寺の役職につかれ、また寺の仕事をされてきたが少しも嫌な顔をされたり、仕事に倦いた様子をみせられたことがなかった。

幻有禅師が万暦42年(1614年)4月江蘇省常州府宜興県竜池山禹門院(うもんいん)で亡くなられた時、和尚に禹門院の後を継がれるよう皆でお願いしたが聞きいれられず、住持する事を厳しく退けられて

「出家して僧になったものにとって何が最も大切な事であるかというに、師の恩を忘れないということ以上に重大なことはない。むしろこの寺の一番中心の建物である法堂(禅師が問答して禅機を戦わす所)を荒れるままにして草が生えて見苦しくなっても、また、そこで禅法を宣揚する問答が見られなくなっても、師匠の亡くなられた霊の傍に誰もいないということと比べたなら、ものの数ではない」

といわれ、満三年の間亡き師匠の霊につきそって墓の守りをされた後やっと皆の請いに応えて住持となられた。