密雲和尚が天童山景徳寺の住持をされていた時次から次へと寺の建物が建立されていった。これは和尚が自ら率先していつも大衆(僧)の先頭に立って事に当たられたからである。ある時、大衆に言われるには

「私はお師匠さま(幻有伝禅師)の傍にいて参禅し仏法を学んだが、その参禅も学道もみんな作務(色々なお寺の仕事に勤労する)をしているうちに学んだものである。お前達はただひたすら安らかに坐禅することだけが修行だと思っていてはならない。私は亡くなった師匠の『参禅学道はみな作務のうちにあるのだ』という考え方を禅宗のお寺の中に残しておきたいと思う」と。

たまたま寺で普請(仕事)することがあった際、十余人の僧が玲瓏岩に遊びに出かけていっていたのでこの仕事に出ることが出来なかった。密雲和尚は怒られて、これらの僧を寺から追い出された。この時、嘯雪聞という僧の名前がこの追い出された僧の名簿に載っていなかったが、この追放の事を聞いた嘯雪聞は十余人と一緒に寺を出て行かれた。出て行かれる時、偈(禅僧の詩)に

「私も皆と一緒になって玲瓏岩に行った。十余人は慌ただしく寺を追い出されたのに、私ひとりが悠々として残っておれるものだろうか。私はどうしても自分の心を欺いて寺に停っていることが出来ようか。それは出来ないことだ、自ら追い出されるようにしてお寺を出て行こう」

と述べられ、さっさと寺から出て行かれた。 密雲和尚がこのことをあとから聞かれ、

「これは正しい行き方である」

と認められ、すぐ人をやって寺に呼び戻された。