隠元禅師がシナの黄檗山で住持をされていたころ丁度シナでは漢民族の明朝が亡び満人の清朝が天下を取ってかわろうとしていた。
順治9年(1652年)12月8日、隠元禅師は戒会を開かれ、文章で
「洪武10年(1377年)戒会を催し、成祖(1401年~1424年在位)のめでたい御世におあいすることが出来、それからも代々の天子さまのお蔭を蒙ってきたが、いまの天子さま(神宗皇帝)にはまた特別に徳恩を受けてきた。」
と、いわれたところまで読んでこられると、満感一時に胸に逼って泣きだされ仰ぎ視られることが出来なくなられたのでそこに居合わせた一同も唯々驚くばかりであった。後にある僧が
「なぜあのように泣き出されましたか」
と、その理由をたずねると、隠元禅師は
「私は明朝を開かれた太祖の年号である洪武という言葉を聞いたとき心の中に明室の滅亡ということが思い合わせられ痛ましくなって急に感情がこみ上げてきて、思わずいたみ悲しんで泣き出したのだ」
と、いわれた。