日課時間表の定めに従って正しく、速やかに、動作して他人に迷惑をかけないこと、また、自分の任務又は命ぜられたことは責任受領し、又他に約束したことは責任をもって行うと共に、総ての行事に対しては素直な気持ちで、真面目にやること・・・
「道場生活手帳からの引用」の記事一覧
教誨(やさしく厳しい諭し)
シナ黄檗山の鑑源興寿禅師は隠元禅師を出家させられた師匠である。禅師は僧侶としての戒律を厳しく守られた大徳で、ある時隣にいた僧が話しのついでに、ある在家で法事にまねかれて行ったがお布施が少なかったと不平をこぼしているのを聞・・・
勤力(つとめよや、それ)
隠元禅師の法嗣のなかでも禅機をもって最も知られた即非如一和尚(1616年~1671年)は寛文8年(1668年)九州小倉の広寿山福聚寺の住持の席を法嗣法雲明洞禅師にゆずられ、長崎の聖寿山崇福寺に退隠され、それから3年後の寛・・・
道徳(人の踏むべき道)
隠元禅師門下で「木庵の道、即非の禅」と並べ称された木庵禅師(1611年~1684年)は、寛文4年(1664年)9月隠元禅師の後を継いで黄檗山第2代の住持となられたが、本山の規律を守られることが極めて厳しく、早朝のお勤めが・・・
種徳(陰徳を積むこと)
清軍が南京を陥れたのは順治2年(1645年)5月で、明朝の倒れるのは最早や眼にみるように明らかであった。隠元禅師がシナの黄檗山に2度目の住持をされた順治3年には南シナの各地にまで清軍は進攻して来ており、翌4年2月には黄檗・・・
忠節(おのれに忠なる者は国に忠なり)
隠元禅師がシナの黄檗山で住持をされていたころ丁度シナでは漢民族の明朝が亡び満人の清朝が天下を取ってかわろうとしていた。 順治9年(1652年)12月8日、隠元禅師は戒会を開かれ、文章で 「洪武10年(1377年)戒会を催・・・
慎行(そのひとりを慎む)
隠元禅師がある時、大衆に告げていわれるには、 「お前達参禅し、仏道を学ぶ者は、何はともあれ、仏陀の残された戒律を堅く守って。身と口と意(心)の三つを清浄に保ち、因果の道理をはっきりとさせて置かねばいけない。世間でいうよう・・・
慈生(慈悲の心は含霊の父なり)
隠元禅師(1592年~1673年)は日本に禅を広めるため、日本からの請待に応えて日本に来られたが、ことあるごとに人に勧めて 「生き物を殺さないように、生き物を放してやるように」 と、放生思想をを説かれた。承応3年(165・・・
心地(2)
即非和尚の信者がある日訪ねてきて 「お墓を建てるのにいろいろ吉凶がいわれているがこれは迷信でなく信じてもよいものだろうか」 と尋ねられると、和尚は 「土地がよいとそこには優れた人が生まれる。だから土地と人物との間につなが・・・
心地(1)(死後の世界への覚悟)
費隠和尚の寿塔(お墓)は黄檗山(中国福建省)にあるが福厳寺で病にかかられ、亡くなられようとされた時、大衆を集め告げられるには 「私が死んでも死んだという報せを出さないでくれ。また、あちこちから弔辞や香奠を受け取らないで欲・・・