隠元禅師門下で「木庵の道、即非の禅」と並べ称された木庵禅師(1611年~1684年)は、寛文4年(1664年)9月隠元禅師の後を継いで黄檗山第2代の住持となられたが、本山の規律を守られることが極めて厳しく、早朝のお勤めが終わると法堂に登られ、晩のお勤めが終わると大衆を集めてその人その人の持って生まれた機根にあったように禅を説かれ、前後17年間本山の住持として尽くされたので、大雄寶殿、天王殿、齊堂など禅師の住持時代に落成したものが多く、

「宝殿門楼燦然として一新」

といわれるほど伽藍が整備したが、いつも

「私が住持となって寺の建物もほぼ整ってきたが、これは皆開山老人(隠元禅師)のお徳のお蔭と信者たちが尽くしてくれた力によるものであって、これなくしては出来ないことだ」

と、謙遜されていた。住持となられてからも隠元禅師に遠慮されて方丈に住まわれず、また新しいものや珍しいものが届けられると必ず隠元禅師に先ず進めてからでないと口にされなかった。また諸弟子に対しては常に慈愛の心で接せられたので、鉄牛、慧極、潮音禅師など53人のすぐれた嗣法者があり、隠元禅師の弟子の中でも最も門人の多い法嗣であった。