隠元禅師の法嗣のなかでも禅機をもって最も知られた即非如一和尚(1616年~1671年)は寛文8年(1668年)九州小倉の広寿山福聚寺の住持の席を法嗣法雲明洞禅師にゆずられ、長崎の聖寿山崇福寺に退隠され、それから3年後の寛文11年5月、和尚は56歳の若さで同寺で亡くなられた。臨終に当たって、門人を集め次のように最後の言葉を残され戒められた。

「私は今この世からあの世へ旅だとうと思っている。死に臨んでお前達に言い残して置きたいことは、釈尊の残された仏法をもとにしてなにごとも行うべきである。多くの者はそれぞれ仏法の修行に励めよ。お寺を守ってゆく者は数人でよい。暇をみては怠けたり、不正なことをしたり寺の規矩に外れることをしたりする者は寺から追い出すべきである。また信者から寺へあげられた物を粗末にして、世間の人たちの信心をなくするようなことがあってはすまない」