隠元禅師がシナの黄檗山で住持をされていたころ丁度シナでは漢民族の明朝が亡び満人の清朝が天下を取ってかわろうとしていた。 順治9年(1652年)12月8日、隠元禅師は戒会を開かれ、文章で 「洪武10年(1377年)戒会を催・・・
「2014年」の記事一覧(4 / 6ページ目)
慎行(そのひとりを慎む)
隠元禅師がある時、大衆に告げていわれるには、 「お前達参禅し、仏道を学ぶ者は、何はともあれ、仏陀の残された戒律を堅く守って。身と口と意(心)の三つを清浄に保ち、因果の道理をはっきりとさせて置かねばいけない。世間でいうよう・・・
慈生(慈悲の心は含霊の父なり)
隠元禅師(1592年~1673年)は日本に禅を広めるため、日本からの請待に応えて日本に来られたが、ことあるごとに人に勧めて 「生き物を殺さないように、生き物を放してやるように」 と、放生思想をを説かれた。承応3年(165・・・
心地(2)
即非和尚の信者がある日訪ねてきて 「お墓を建てるのにいろいろ吉凶がいわれているがこれは迷信でなく信じてもよいものだろうか」 と尋ねられると、和尚は 「土地がよいとそこには優れた人が生まれる。だから土地と人物との間につなが・・・
心地(1)(死後の世界への覚悟)
費隠和尚の寿塔(お墓)は黄檗山(中国福建省)にあるが福厳寺で病にかかられ、亡くなられようとされた時、大衆を集め告げられるには 「私が死んでも死んだという報せを出さないでくれ。また、あちこちから弔辞や香奠を受け取らないで欲・・・
清操(清き一線を貫け)
費隠和尚(1593年~1661年)は、常日頃から特別に何か凝ってものを蒐集するいわゆるいわゆる骨董趣味を避けておられた。浙江省嘉興県崇徳の福厳寺に住持されていた時、和尚の信者で呉郡の官吏をしていた蘇という人物が琥珀で造っ・・・
勤力(かげひなたのない勤労は人間の資格である)
密雲和尚が天童山景徳寺の住持をされていた時次から次へと寺の建物が建立されていった。これは和尚が自ら率先していつも大衆(僧)の先頭に立って事に当たられたからである。ある時、大衆に言われるには 「私はお師匠さま(幻有伝禅師)・・・
警貪(むさぼりをいましめる)
隠元禅師が初めてシナの黄檗山で住持をされたころ(崇禎9年、1536年)禅師の師翁密雲和尚(1466年~1542年)は浙江省寧波府鄞県の天童山景徳寺で住持をしておられたがその頃庫司(倉庫の物品を司る役目)をしていた一人の僧・・・
師友(我を生む者は父母なり、我を成す者は師友なり)
密雲悟和尚はまだ元気盛んな壮年時代に幻有老人(密雲和尚の嗣法の師幻有伝禅師)を師匠として髪を剃って出家され、その後いろいろと寺の役職につかれ、また寺の仕事をされてきたが少しも嫌な顔をされたり、仕事に倦いた様子をみせられた・・・
出向坐禅体験先での最初に
最近では、なかなか別の場所へ移って、坐禅研修というものが無いのですが、先般その機会があり、行ってまいりました。 いつもとは勝ってが違うので少し戸惑いもありましたが、何とか無事に終えることができました。 &n・・・